「..そう...わかったわ、ありがとう、レイ..うん...じゃあ頼んだわよ?..はい、おやすみなさい」
「レイか..なんだって?」
「やっぱり..予想してたとおりね、アスカちゃんがドイツに戻ろうとしてたみたい」
「そうか..それで?」
「シンジがそれと察して寸前で引き止めたそうよ」
「ほう? バカ息子もやるものだな」
「それだけアスカちゃんが大事だってことですわね」
「...ユイ、孫はいつ見られると思う?」
「くすくす...まだ早すぎますよ、あなた」
シンジがアスカを引き止めた前日の教室、ぽつんと一つだけ空いた机を見ながら、女生徒たちが井戸端会議を開いている。
話題の中心はその机の主、そして...
「碇くん、明後日退院らしいわね?」
「あ、聞いた聞いた、マナもなんだか嬉しそうにしてるしね」
「ん〜でも複雑じゃないの? 記憶喪失だって話だし?」
確かに彼女たちの言うとおり、マナの心中は複雑。
シンジが退院することはもちろん嬉しい..だが、今回の出来事は彼女もまた傷つくことになった。
誤解とはいえ自らが招いたアスカとシンジのすれ違い、そして..悲劇。
アスカよりは成長している分、逃げ出すことは考えないが良心の呵責に苛まれているのもまた事実。
そしてもう一つ、認めなければならないことがある。
「でもさぁ、惣流って..いい根性してるわねぇ? あんな事故起こさせといて、平気な顔して碇くんの所に通ってるらしいわよ?」
「そうらしいわね、妹も良く平気な顔してられるもんだわ」
『バンッ』と大きな音を立てて机が叩かれ、同時に栗色の髪を持った少女が立ち上がる。
ガタガタと椅子が動く音、ただならぬ雰囲気を持ったマナの動きに気圧されてクラスメートが退く。
「勝手なこと言ってるんじゃないわよ! アスカとレイがどんな気持ちでいるかも知らないくせに!!」
振り返りざまにマナが大声で言い放つ。
普段から威勢が良いとはいえ、彼女がここまで感情をむき出しにするのも珍しいこと。
噂話をしていたクラスメートは皆一様に黙り込む。
しばらくの後、一人がおずおずと口を開く。
「そんなに怒んなくたっていいじゃない...マナだってあの女のことは良く思ってないでしょう....?」
よせばいいのにクラスメートは更に神経を逆なでする様なこと口にする。
今回の出来事がなければマナもその言葉に軽い口調で応じたかもしれない。
だが、今の彼女にそれを冗談と取るだけの精神的な余裕はない。
「良くは思ってないわよっ! だけど今回の原因は私にあるのよ! それに...」
そこまで言って、言葉に詰まった。
怒りと悲しみ..今まで押え込んでいた感情を押さえることができない、その瞳がたちまち潤みはじめる。
唇を噛み締め、くるりときびすを返すと彼女は教室の外へと出て行った。
「霧島!」
その背中へ男子生徒の声がかけられる。
声をかけたのはケンスケ、こんな時に黙って見ているほど彼の神経は太くない、トウジの顔をちらっと見る。
トウジも黙ってうなずく、目で後は頼むと問いかけるとマナの後を追った。
「なによ、マナったら...それに相田も..」
「あいつはな、泣いたダチを放っとくことがでけんだけや...それより、自分らがどれだけデリカシー..っちゅうのんか? ないことを霧島にゆうたか、考えてみるこっちゃな」
今だ自分の非を認めようとしない言葉に、トウジが渋く言い放つ。
普段はおちゃらけた調子の彼が、静かに..そして低く言う言葉には重みがある。
それに、彼の男気は誰もが認めるところだ。
「悪かったわ...マナが帰って来たらあやまるから..」
「ほな、そないしてくれるか? ワイもダチ同士がいがみ合うのは見たくないよってな」
いつもの調子に戻ってトウジが言う。
少しだけ、固くなった空気が和んだ様だ。
「霧島?」
屋上の一角で、息を切らせながらケンスケがマナに問いかける。
だが、彼女は答えない、ただ肩を細かく震わせながら下を向いて立っている。
彼は彼女に聞こえない様にそっとため息をつくと、近くの手すりにもたれた。
止まることなく風が吹きすさぶ、季節はまだ冬..風はまだまだ冷たい。
「...相田? 何しに来たのよ?」
「いや..なんとなく放っとけなくてな、それだけだ」
「そう」
確かに明確な意志があって来たわけではない。
トウジが言うとおり、友人が泣いているのを黙って見ていられなかったというのが最も答えに近いだろう。
それとも自分の中に気づいてもいなかった感情が隠されているのか...
そこで、彼の思考は中断された。
「相田? ちょっと頼みがあるんだけど...」
「ん? 別にかまわないぜ、なんだ?」
答えに安心したか、彼女が赤くなった目を上げる。
その顔を一目見ただけで、被写体の心理状態を読むことに長けている彼は彼女の心境をほぼ把握した。
自身が招いたアクシデントによって、嫌でも認めなければならない事実。
そのことは周囲から言われるまでもなく、彼女が一番知っている。
ついっと彼女が歩いてきた。
そして彼の肩を掴むと、くるりと後ろを向かせる。
「お、おい霧島?」
「..黙って...」
首だけで振り返りながら異論を唱えようとするのを、彼女はうつむき顔を見せないまま諭す。
彼はさせるがままにすることにした。
「?」
「...ちょっとの間だけ..背中を貸して.....」
自分の両肩に手が掛けられ、背中にこつん..と頭が当たる感触。
もう何も言うまい、ここまでされて判らないのはシンジぐらいなものだろう、緊張した身体から力をゆっくりと抜く。
やがて背中にくすぐったい様な細かな震えが伝わり、くぐもった嗚咽が聞こえてきた。
少女は悲しみの中、そして少年は初めて経験するシチュエーションの中で、冬の寒さを忘れていた。
「おっじゃまかしらぁ〜?」
のほほんとした調子をことさらに強調して、紅い瞳を持った少女がベンチに腰かけた二人に問いかける。
その声に応えて、ふっと少年の方が顔を上げた、赤い髪の少女は今だ彼の腕の中でじっとしたまま。
「どうかしたかい? レイ」
「どうかしたかもないでしょ? お兄ちゃん! 退院手続き済ませてきたからね?」
「そんなこと必要だったんだ..?」
「...ふぅ..まったく....」
気はそれなりに利くのだが、世俗のことには少しうとい兄をしげしげと見てから、レイはにぱっと笑う。
その笑顔にはもう一つの意味がある。
「しょうがないわねぇ..アスカ! あんたがしっかりしないとお兄ちゃん生きてけないわよっ!」
「...うん」
力なくアスカが応えた。
だが、レイの言葉に気が乗らないわけではない、むしろその逆。
彼女にとって最愛の人だけではなく、その妹からも必要とされていることはとても嬉しいことなのだから。
その感情ゆえ言葉に力が乗らないだけだ。
「.......」
そんな彼女を3対の視線が優しく包む。
いつのまにかリツコがレイの背後に立ち、そっとその肩を抱いている。
「さぁ、そろそろ部屋に戻りなさい。 明日退院するとは言っても、無理は禁物よ?」
「そうですね、アスカ?」
「..ん...」
シンジが言葉とともに手でアスカを即す。
彼女は泣きはらした目を見られない様にうつむいたまま。
ゆっくりと立ち上がると、ぽそりとつぶやく様に口を開く。
「..顔...洗ってくる.....」
「アスカ! 約束破っちゃだめだよ!」
ふらふらと歩きだした彼女に背後から声がかかる。
立ち止まった身体がぴくりと震えた、直後わなわなと肩が大きく震える。
「あんたって人は...ほんっとぅ〜にデリカシーないわねっ!?」
内容とは裏腹に棘のない、むしろ嬉しそうな声が帰って来た。
彼女にとって、最愛の人はそこにいる。
幼い頃、そして再会してからの記憶を共有していないだけで、彼の本質は変わっていないのだから。
その事を素直に喜び、言葉を続ける。
「シンジが約束破っていいって言うまで、アタシはどこにもいかないわよっ!」
それだけ言うと、小走りに駈けていった。
見送る3人からはその表情はうかがえない、だけども最高の笑顔であることに疑いの余地はないだろう。
「ほんっと..お兄ちゃんって....鈍感なんだか鋭いんだか...はぁ..」
「いいじゃないの、シンジくんらしくって」
くすくすと笑いながらリツコがシンジを見る。
そのどっちつかずの少年は憮然とした表情。
自分の言葉がアスカに新しい涙を流させたことには気づいていない。
「あんな可愛い女の子、泣かしちゃダメよ? シンジくん?」
「そんなこと言ったって、アスカはすぐ泣くんですよぉ..」
「...そういう意味じゃないわ」
「しょせんお兄ちゃんか...」
「?」
ガラス越しの柔らかい光の下、怪訝な顔をした少年を妙齢の女性と妖精の様な少女が嬉しそうに見つめていた。
「ここが僕たちの家?」
「そうよ、そしてお兄ちゃんとアスカの愛の巣でもあるわ」
どこか懐かしげに聞いたシンジに対し、レイが混ぜっ返す。
だが、そんな言葉がにぶちんの異名を持つ彼に通じるわけもなく、『なんのこっちゃ?』と顔に書いてある。
『やっぱりお兄ちゃんよねぇ』と、くすくすと笑いながらレイはインターホンのボタンを押す。
『はぁーい!』
「レイちゃんでーす! 開けてくれない?」
『ちょっと待ってぇ』
その言葉と共にロックが外れる音がする。
レイはドアノブを掴むと、我が家のドアを開けた。
二人のささやかな謀りごと、それはアスカとシンジが再会した時のシチュエーションの再現。
みんなの、そして未来の夫婦の共通の思い出を再現することにより、記憶を取り戻すきっかけになればとの思い。
「さ、どうぞ? お兄ちゃん」
「うん」
促すレイに応えてシンジが足を踏み入れる。
ほどなくしてぱたぱたとスリッパが床を叩く音が響いた。
「お帰りなさいっ! シンジっ!」
その言葉と共にアスカが彼に飛びつき、スリッパが片方宙を舞う。
「っと..ただいま、アスカ」
いつもよりは勢いが殺してあるためか、少しよろけただけでシンジはアスカを抱きとめる。
そんな光景を見ながら、レイは後ろ手でドアを閉じた。
当初の予定とは違うが、これはこれで良いのだろう、満足気に微笑んでいる。
「お〜お〜見せつけてくれるわねぇ?」
「レイぃ? 今日はあんたにも許してあげるわよ?」
アスカがシンジの肩ごしに声をかけ、その言葉を聞いたレイはにやりと笑う。
アスカが来るまで、シンジに抱きつくのは自分だけの特権だった、今ではアスカがその優先権を持っている。
本来、自分の兄に抱きつくことぐらい別に誰はばかることなどないのだが。
「ふふふふふ...お兄ちゃぁん! お帰りなさぁいっ!」
「ぐえぇ」
第3新東京市を代表する美少女二人に前後から抱きしめられ、シンジは苦悶の声を上げる。
だが、そんなことはおかまいなしに二人は抱きしめる腕に力を込め、頬をすりよせる。
満面の笑みを湛え、一人の少年を取り合う様に抱きしめている少女二人。
笑顔というファクターがなければ、恋愛関係のもつれから修羅場を演じている様にしか見えないだろう。
「二人とも、僕を絞め殺す気?」
しばらくの後、もういいだろうと思って懇願する。
あわてて二人が彼から離れ、きしんでいた彼の肋骨が元の位置へ収まる。
「やっと...やっと..戻ってきてくれたのね....お兄ちゃんが」
「そうよ、またいつもの生活に戻れるわ」
二人の少女の瞳が潤む。
シンジはただ静かに微笑んだまま..しかし、その心の中は穏やかどころではない。
彼自身の記憶は今だ戻っていないのだ、そのことは彼女たちが喜ぶほど彼に重くのしかかる。
「とりあえず、お茶にしてくれるかな?」
声にその響きが出ない様に、彼は注意して言葉を口にした。
「お久しぶり、シンジくん」
「あ、おはようございます。 どうしたんですか? マヤさん」
入院中に何度か見舞いに訪れたこともあり、彼女のことはシンジも知っている。
もし、自分達兄妹に姉がいるとしたら、こんな人がいい、そう思わせる女性だった。
事実、3人いる姉貴分の中で最も二人がなついているのが彼女なのだ。
「今日から学校でしょ? まだ体力が回復してないんじゃないかと思ってね? 行き先も同じだし、しばらくは送って行ってあげるわ」
「う〜ん..動かないとかえって体力は回復しないと思うんですけど?」
「お兄ちゃん、素直に乗った方がいいわよ? ミサト先生のアルピーヌに乗せられたらそれこそ再入院だし」
その言葉に、アスカもうんうんとうなずいている。
病院からの帰りに、ありがたいお言葉についつい乗ってしまったことは今でも後悔のタネだ。
「やばいっ!? 来たわ! 早く乗ってお兄ちゃん!」
そう言うなり、シンジをリアシートに押し込む。
続いてアスカを放り込み、自分は助手席に乗り込んだ。
マヤも手慣れたもので、ドアをロックするなり、Dレンジにレバーを叩きこむ。
「行くわよっ! 最初だけ我慢してねっ!」
その言葉と共に加速Gが襲ってくる。
アスカが背後を見ると、ちょうどアルピーヌがドリフトしながらマンションの前に入ってくるところだった。
「間一髪せーふ..」
「なんなんだ? いったい...?」
ブルーのドアが開かれ、ナイフのブレイドラインを思わせる危険な脚線美が滑り出てくる。
走り去るシルバーのVWゴルフのテールを見つめながら、ミサトがいまいましげに口を開いた。
「ちょーっち遅かったかぁ、マヤのヤツめぇ..覚えてらっしゃい!」
ほんのちょっとの差で愛しい弟分を奪われ、彼女は地団駄踏んで悔しがる。
とりあえず、自動販売機で缶コーヒーを買い、腰に手を当てて一気にあおる。
「..んぐっ...んぐっ....んぐっ....ぷはぁっ!」
おっさん臭い飲み方だ...
「さぁって、行きますかぁ! どうせ学校で会えるし、久しぶりだもんね、サービスサービスぅ!」
何をサービスする気だ?
缶をベキベキッと握り潰してゴミ箱に捨てた後、ドアを開け愛車に乗り込む。
そしてギアを1速に叩きこんだ途端、彼女の顔つきが一変する。
キャイイイッ!とスキール音がした直後、その場にはゴムの焼けた刺激臭だけが残された。
その匂いも、キンッと澄んだ風の中に散らばり、溶け込んで行く。
車窓を流れていく朝の風景。
それは見慣れているはずの、そして自らもその中にいた通学する学生たち。
ぼうっとしている様で、それでも何かを見つけようとあがいている様な掴めない表情。
そんな彼の横顔を見ていたアスカの顔に翳が射す。
「(...シンジ..)」
彼女が考えていることは昨晩のこと。
夕食も終わった団らんのひととき、言いにくそうに彼が切り出した言葉。
「二人とも、聞いて欲しいんだ..」
「なに?」
「なにを? お兄ちゃん」
「うん、二人には辛いことかもしれないんだけど...」
そこまで言うと、一度言葉を区切る。
隣にいたアスカがそっと手を取り、斜め下から覗きこむ様にして見上げた。
そして微笑む。
「シンジっ、言ったはずでしょ? アタシは...レイも..あんたのためならなんでもするって、ね?」
「ありがとう、アスカ」
少し、安堵した顔になったシンジが言葉を続けた。
「僕だって記憶を取り戻したい。 こんな可愛い妹やフィアンセと過ごした大切な思い出たち...もちろん、その他の人たちや今まで培ってきた全てのこと...」
妹とフィアンセのくだりでレイとアスカが微かに頬を染める。
「だから、僕たちの思い出の場所に連れて行ってもらいたいんだ。 そこへ行っても記憶は戻らないかもしれない、だけど何もしないでいたくはないから...」
「..スカ? アスカ?」
自分を呼ぶ声で、我に返る。
どうも自分の中に入り込んでしまっていたらしい、顔を上げるとシンジが心配そうに見ていた。
「大丈夫よ、気にしないで? シンジ」
「気にするなって言われても、僕のこと考えてたんでしょ?」
「こういう時だけ鋭いのよね、あんたはっ!」
膝の上に乗せたカバンを指先でコンコンと叩きながら、困った様に言葉を返した。
続いての言葉はちょっと強がりにも聞こえる調子。
「だぁ〜いじょうぶっ! どこから連れまわしてあげようか考えてただけよ」
「あ! それなら、私に考えがあるんだけど?」
「マヤお姉ちゃん?」
突然口を挟んできたマヤに、怪訝な調子でレイが聞き返す。
「大丈夫よ、レイちゃん。 シンジくん? あなたの特技はチェロだって言うのは聞いてるわよね?」
「はい」
「うん、しかもコンクールで入賞するほどの腕を持ってるわ、だからね..」
「あ、わかった! お兄ちゃんを音楽室に連れて行って弾かせようってことね?」
「ご名答! その通りよ、レイちゃん」
「でも..」
不安そうに、今度はアスカが会話に割り込む。
「身体で覚えたことっていうのはね、なかなか消えないものなのよ。 そんなに心配しなくてもいいって、ね? アスカちゃん」
「うん..シンジは....いいの?」
その言葉に対し、彼はアスカの頭をぽんっと叩く。
「昨日言ったじゃないか、僕は記憶を取り戻たいって、ね? 異存なんかないよ」
「..そうね、今もやってくれたし」
嬉しそうに、彼女は顔をくしゃくしゃにしている。
「?」
「今、あんたがやってくれたジェスチャーはね、安心しろって言うアタシたちのサインなのよっ」
そう言うと共に、頭をぽてっと彼の肩にもたれかける。
その表情はとても満足しきった笑顔。
「「...ごちそうさま」」
口元を苦々しげに歪めながら、レイとマヤがユニゾンした。
ほどなくして4人を乗せた車は学校に到着した。
歩くことを想定して早めに家を出た上に、マヤが車で送ってくれたこともあり、かなり時間的には余裕がある。
そして駐車場へと入った4人が目にしたものは、紫がかった黒髪を風になびかせ、颯爽と待ち構える葛城ミサトであった。
「あっちゃー」
車を停めたマヤがハンドルに突っ伏した。
レイは口の端をひくつかせ、ただ強ばっている。
平気な顔をしているのはシンジと、彼にぴとっとくっついてごろにゃんしているアスカの二人。
サングラスを外しながら、つかつかとミサトが近寄ってくる。
そして、コンコンと運転席のウインドゥを叩く。
「はいはい..」
観念した様に、マヤがスイッチを操作してウインドゥを下げる。
ミサトが腕をドアにかけ、中を覗きこんできた。
「ざぁ〜んねんでした。 アタシを振り切ろうなんて10年早いわよん、マヤ?」
「....はい...でも、10年後には葛城さんはよんじゅっひゃい」
「ぬぅあ〜んですってぇ〜?」
「..な..なんれもありまひぇん....」
ほっぺたを両側から掴まれ、更に引っ張られて、マヤは涙目になった。
「そんなことよりシンジくんっ!」
「はい?」
顔だけをウィンドウから突っ込んで声をかけたミサトに対し、彼はすっとんきょうな声で聞き返した。
アスカはミサトの声に驚き、もたれかけていた頭を起こす。
それでもからめた腕はそのまま、不機嫌な表情を隠そうともせず、ミサトをジト目で見つめ返す。
「そぉ〜んな怖い顔しなくてもいいってぇ〜別に獲って喰ったりはしないわよん、アスカ」
「..........信用できない」
アスカの返答を待たずに、レイが横からツッコミを入れる。
「...後でゆっくりお話ししようね〜...レイ」
「あんまり怒ると小皺が増えますよ、ミサトさん」
「う゛」
何気ない言葉に、ミサトが固まる。
「あ..あはははは...いやぁねぇ、シンちゃんったら....」
気にしていることをずばりと言い当てられ、彼女は頬をひくつかせながら乾いた笑いを響かせた。
女三十歳・独身、悩みは尽きないものらしい。
「どうでもいいけどぉ〜?」
と、尻上がりのアクセントでレイが口を開く。
「早いとこ音楽室行かない?」
「あ、そうだったわね、レイちゃんたちは先に下りてて、私は車入れてくるから」
「はぁーい♪」
マヤの言葉に従い、3人は車から下りる。
反対側から下りればいいものを、シンジの手を放したくないのか、わざわざアスカは彼と同じドアから下りる。
そんな二人を見ながら、ミサトはふふっとばかりに微笑む。
「(まったく、可愛いわねぇ二人とも...でも、そこまでよん♪ 大人の女の魅力ってものを教えてあげるわん♪)」
10秒ほどは猶予を与え、ミサトの笑みが変わる。
彼女の身体から発される殺気を感じ、レイがびくっとして彼女を見た。
そこにあるのはサキュバスの顔。
「うふふふふ..しぃんちゃあ〜ん! 退院おめでとぉ〜う!」
両手を大きく広げて、包み込む様にミサトの手が閉じられる。
頭をその豊かな胸へと押さえつけ、いやんいやんとばかりに身体を左右に振る。
その顔は喜色満面。
「......レイ? ミサトさんっていつもこんな調子なの?」
「..そうよ、お兄ちゃんは何度あの胸に抱きしめられたことか.....私も大きかったらやるんだけど」
「ふぅん..」
すんでの所でレイから腕を引っ張られ、ミサトの攻撃をかわしたシンジが恩人と会話を交わす。
あきれた顔で、そのからまった二人に視線を戻すと、ちょうどアスカが反撃を開始したところだった。
「あにすんのよっ! この三十路女っ!?」
「へ? なんでシンちゃんじゃなくてアスカなのよぉ〜!?」
「知らないわよっ! それよっか離さないとこうよっ!!」
「あ!? だめぇ...うんっ......きゃぁ〜ははははははは」
わき腹をくすぐられて、ミサトがアスカを開放する。
アスカはミサトにくしゃくしゃにされた髪を一振りして背中に廻すと、くるりと向きを変える。
「うわぁ〜ん、ミサトに汚されちゃったよぉ」
そう言うと共に、シンジに抱きつき、ぐすぐすと泣きまねを始めた。
「はいはい」
狙いどおり、彼の指先が髪へ滑り込んでくる。
いつもより大きな動き、それは彼女を落ち着かせるとともに、乱れた髪を整えるため。
「(ふにゃぁ)」
ごろごろと喉を鳴らす様にアスカは甘えている、そして仔猫をあやしているかの様な優しい表情のシンジ。
そんな二人をレイはジト目で、ミサトは大きく頭をボリボリと掻きながら見つめている。
ずぼらなくせに風呂好きな彼女らしく、フケが落ちてくることもない。
「策士め...」
「わたしゃ、ダイオキシンかなんかかってぇの。 それにしても...見せつけてくれるわ...」
「「お互い、さびしいわねぇ」」
しかたなく、二人は苦笑しあった。
マヤが鍵を開けると、ロッカーから黒いケースが姿を現した。
ずっしりと重そうなケースを持ち上げようとした彼女に、思わずシンジが声をかける。
「あ、いいです、僕が出しますから」
アスカの手を振りほどくと、彼はマヤのかたわらに立つ。
「悪いわね、じゃあいつも使ってた椅子はあそこだから、ケースから出して持ってきて?」
「はい」
マヤは微笑み返すと、自らはピアノのそばに行き、楽譜を立てかける。
そして調子を確かめる様に軽く音を紡ぎだしていく。
「なんだか楽しそうね、シンジったら」
「そりゃあね、お兄ちゃんが唯一本気でのめり込んでる趣味だし」
自分を放ったらかし、その重いはずのチェロを軽々と持ちあげて嬉しそうにハミングしている彼を見ながらアスカが不満気につぶやく。
こと音楽になると、彼はレイもアスカも目に入らなくなる。
レイはその事を知っている、そしてしょうがない事と既にあきらめているのだが、アスカはそうではない。
彼女は彼にとっての一番が常に自分でないと気がすまないのだ。
「マヤさぁん? これどうやって弾くんでしたっけ?」
困った様な顔で、シンジが彼女に告げた。
椅子まで持ってきたはいいものの、やはりこれからどうしたらいいのかは思い出せない。
「くすくす...今教えてあげるわ、調律もしなきゃいけないしね?」
マヤは手を休めると彼のそばへと歩いてくる、とは言ってもほんの数歩。
移動する彼女を、アスカはじぃ〜っとジト目で追う。
その瞳は『変なことしたらタダじゃおかないからねっ!』と言っている。
「ちょっと代わってくれるかな? アスカもそんな顔しないのっ、私は葛城さんとは違いますって」
人のよい笑顔を浮かべて、彼女が二人に問いかける。
シンジは素直に席を譲り、アスカのかたわらに立つ、そして彼女の頭をぽんっと叩く。
驚いた彼女が見上げると、彼は穏やかに微笑んでいた。
「お兄ちゃん? 始めるみたいよ、マヤお姉ちゃん」
「んっ」
レイの声に彼が視線を戻す。
そこではマヤが弦を張りなおし、調律を始めようとしていた。
弓を構え、そしてひとつひとつ確かめる様に弾いていく。
「(そうか...ああすればいいのか)」
どこか懐かしいものを感じながら、そう思う。
いつのまにかうずうずとしはじめている彼を、アスカは嬉しそうに見つめた。
やがて調律が終わった。
「こんなもんかな? はい、いいわよシンジくん」
そう言いながらマヤが彼にチェロを手渡す。
しっくりと手に馴染んだその感触、彼は何度も確かめる様に握りなおす。
「手が...感触を覚えてます.....なんだか嬉しいですね」
ひとつひとつの言葉を噛み締める様な言葉。
レイとアスカの瞳が微かに潤んだ。
「とりあえずは...そうね、なんでもいいから音を出してみて?」
「..はい....」
彼は目を閉じ、大きく息を吸い込む。
何度か深呼吸を繰り返した後、弓を構える。
「シンジ..」
「お兄ちゃん..」
「シンジくん..」
三人三様に、祈る様な思いで彼を見つめる。
そして、彼の手がゆらっと動いた。
「「「!」」」
三人の期待を大きく裏切る音が音楽室に満ちる。
それはよい意味での裏切り..単音を出すどころか、彼は次から次へとリズムを刻んでいく。
その曲は彼が幼い頃から数限りなく弾いてきた曲、暗譜どころか身体に刻みこまれたもの。
「...あ、あれ?」
我に返って、不思議そうに手を止めた。
心地よいリズムに浸っていた三人が、急に演奏をやめられて怪訝そうに見つめる。
「どうしたの? 見事な演奏だったわよ?」
「いえ、まったく意識してなかったんですよ、弓を構えた瞬間...そうですね、なんというか...こう...」
「いいわ、それ以上言わなくても、ね? シンジくんは音楽が大好きだった、そして今でもね? それでいいじゃない、おいおい思い出していけばいいわよ」
「そうですね、マヤさん」
嬉しそうに微笑み返すシンジを見て、マヤが頬を染める。
天使の微笑みは女性にとって反則技だ。
「さ、さて..じゃあ、私からの退院祝いよ」
それは照れ隠し、彼女はピアノへと向かい直る。
「受け取ってね?」
直後、軽やかに音を紡ぎだしていく。
その音色の中に見え隠れする彼女の気持ち、音感という絆で結ばれている二人には手に取る様にわかる。
「(ありがとうございます、マヤさん)」
そう心の中で感謝を込めると、何気なく手を動かす。
子供の頃から、何度も二人で弾いてきた曲、かえって意識しない方が上手く弾ける。
身体の奥底では忘れていない、自分が最も愛した趣味。
「..悔しいな...アタシには何もできないなんて...」
「私だっておんなじよ....でも、これでなおさら希望が持てたわ」
「そうね」
自分たちには割り込めない二人の絆。
悔しそうに、それでも希望を抱きながら、二人は囁き合った。
「それにしてもやなぁ、自分のことは覚えとらんくせに勉強はできるとはどういうこっちゃ?」
「まぁ、そう言うなよトウジ。 一番戸惑ってるのはシンジなんだからさ」
級友たちとの再会を果たし、無難に復帰初日の午前中を終えた三人は温室へと向かう。
時折、シンジを目線で追う生徒たちがいるが、三バカトリオは気にも止めない。
「せやな、それよりもメシやメシ!」
「ケンスケ? なんでトウジはこんなにはりきってるんだ?」
やたらと気合いが入っているトウジを不思議そうに見ながらシンジがケンスケに聞く。
彼はふふんと鼻で笑うと答えを返した。
「昔っから食い意地ははってるんだがな、お前たち兄妹の策略で美味い弁当にありつけることになったのさ」
「ふ〜ん...僕たちってそんなこともやってたんだ」
「...と、悪い。 気にしないでくれ」
「いいよ、ケンスケ。 僕に関ることは全て言ってもらいたいんだ、何がきっかけになるかはわからないし」
「そうだな、そうさせてもらうよ」
シンジの背中をバンッと叩きながら、ケンスケは最後の言葉を口にした。
やがて三人は温室へと足を踏み入れる。
冬だと言うのに、春の温かさ、シンジは思わずアスカとのやりとりを思い出してしまう。
ほんの数日前の、それは自分にとって大切な少女を失わずに済んだこと。
「どないしたんや? にやにやしよって? すけべなことでも考えよったんか?」
「いや、なんでもないよ、早く行こう」
「そんなに惣流の弁当が食べたいのかよ? いくら愛妻弁当とはいえそこまで楽しみにしなくてもいいんじゃないか?」
「いや、別にそんなわけじゃ..」
「なぁ〜にがそんなわけじゃないってぇ〜?」
怒気を孕んだ声が横手からかかる。
恐る恐る振り向くと、そこには両手を腰に当て、少し前かがみに自分をにらみつけている赤毛の仁王が立っていた。
「あ...アスカ......」
「まぁったく、ちょっと来るのが遅いから心配して来てみれば、あんたって男は....」
「..い、いや..ちょっと話を聞いてよ...」
「イ・ヤ・罰としてあんたはここからみんなのとこまでアタシと腕を組んでいくのっ!」
「へ?」
有無を言わせず、彼女は彼の右腕へ自らの左腕をからませて引っ張っていく。
「...結局、のろけられただけだな?」
「せやな」
目の前を歩いていく二人を見ながら、嬉しそうな顔で二バカは会話を交わした。
「ほら、この間の礼よ」
その言葉と共に、ケンスケの眼前に弁当箱がぶら下げられた。
彼はハトが豆鉄砲をくらったかの様に茫然自失。
その他の連中は、大きな汗を額や後頭部に貼り付けたまま固まっている。
一人、シンジだけは状況が判らずきょとんとした顔のままだ。
「いらないんなら、それでもいいけどさ。 鈴原ぁ? あんたの腹には余裕があるわよね?」
「余裕はあるんやが、それは喰えへんな、自分がようわかっとるやろ?」
にやにやと笑いながらトウジが答える。
マナはこんちくしょうといった顔。
「い、いや...ありがたくちょうだいするよ...あのメールはこういう意味か」
3時限目の途中、彼のもとへマナからメールが舞い込んだ。
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From:Mana Kirishima To:Kensuke Aida Date: Mon, 22 Feb 2016 10:54:26 JST Subject: あのさ ------------------------------------------------------ ちょっと言っときたいことがあるんだけど。 今日は飲み物だけ買っとけばいいからね。 ------------------------------------------------------ |
大方、レイたちと共謀してシンジの復帰祝いと言う形で大量に食料を持ち込むものだと考えていた彼の予想を大きく裏切り、目の前にはマナお手製のお弁当がある。
嬉しいやら悲しいやら、複雑な顔で彼はその弁当箱を受け取った。
マナはホッとした表情、そしてアスカは少しさびしげ。
「ひとつ言っとく..」
「あん?」
「残したら死刑っ!」
「どわぁっはっはっは!....ひぃ〜こりゃおかしいでぇ〜」
どげしっと大きな音を立ててトウジの顔面にこぶしがめり込む。
「なぁ〜にがそんなにおかしいってのよ? お父さん仕込みの格闘術....もっと味わいたい?」
「ふいまひぇん...」
その言葉を最後に、トウジが後ろにばったりと倒れる。
あわててヒカリが彼の頭を膝の上に乗せた。
それを見たレイとアスカがにやりと半角笑いを浮かべる...いつも一緒にいるうちに、だんだん似てきてしまっている様だ。
「...ヒカリ、介抱はまかせたわよ?」
「はい」
瞳に怒りの灯をともしながらも、チャンスを与えてくれたマナにヒカリは感謝した。
それから、放課後や休日、寸暇を惜しむ様に3人はあちこちと思い出の場所を歩き回った。
兄妹だけが共有する思い出もあれば、そのまた逆もある、時としては家族としての3人の思い出も。
そんな努力にも関らず、どうしても思い出せない。
もう少し、何かにひっかかっているだけの様な気もするし、既視感を感じたことも数度ではない。
彼はますます苛立ち、二人の少女は悲しい表情を見せることが増えてきた。
その度にすまなさと切なさが込み上げてきて、彼は自分の不甲斐なさに内心怒り狂うことになった。
「やっぱり、行くしかないんだな...」
何かを決意した静かな、そして小さな言葉。
内容は聞き取れなかったが、その気配から彼が何かをはっきりと決めたことだけはわかる。
アスカは小さく身震いした。
「アスカ?」
「なに? シンジ...」
漆黒の瞳の中に、凛とした決意の光を見定めて、そのサファイアプルーの瞳がわずかに曇る。
紅い瞳は不安気にその黒と蒼の瞳を交互に見る。
「教えてくれるかい? 僕が事故を起こした場所を?」
「!」
やはり来た、彼女が最後の最後まで行きたくなかった場所。
そこは彼女にとって、とても神聖な思い出の場所であると同時に自らを罪の意識に貶める場所。
思わず、両肩をぐっと抱きしめて下を向いてしまう。
小刻みに震えている彼女を見つめながら彼は唇を噛み締め、数秒間の沈黙の後、口を開く。
「ごめん...辛いことを言って、でも....」
「.....いいわ..その代わり..」
彼の言葉をさえぎり、彼女が小さく言葉を続ける。
「..あの場所だけは二人で行きたいの....」
不安気に蒼い瞳が紅い瞳を見つめる。
ほんの一瞬の逡巡の後、レイは静かにうなずいた。
あそこで二人の間に何があったかレイは知らない、だがそこまで言われて強引についていくほど彼女も野暮ではない。
「ありがと..レイ..着替えてくるね」
そっと自分の部屋の中へと入って行く。
しんっと静まり返った重い空間。
やがてアスカが部屋から出てきた、あの日と同じ服を身にまとって...
「!?」
彼の脳裏でなにか警鐘の様なものが鳴る。
「(もう少し...もう少しなんだ...)」
「行こう..シンジ..」
無理に笑顔を作って、アスカが告げる。
そっと立ち上がると、彼は彼女の手を取った。
「行ってくるよ、レイ」
「うん、気をつけてね..お兄ちゃん、アスカ」
「もし、遅くなったら...先に寝てていいからね」
「わかった」
そして、二人は外へと出ていった。
レイはふうっと大きく息を吐き出すと、窓の外を見る。
「お願いね...アスカ」
クッションをぎゅっと抱きしめ、独りつぶやいた。
「ここが? そう...なの?」
高台の公園、寒風が吹きすさぶ中シンジがアスカに問いかける。
さすがに初秋の時とは違い、彼女もコートを羽織っている。
「..そうよ..事故はもうちょっと下った所で起こしたんだけどね」
二人を乗せてきたタクシーは既に帰ってしまい、公園は外灯と少し離れた場所にある自動販売機の明りだけがほのかに地面を照らしだしている。
「そうか...僕は..」
ふっと口から出た言葉、何を言おうとしたのだろう?
その事に思い当たり、彼は再度口をつぐむ。
視線をめぐらすと、そこには暖色系の川が流れ宝石箱をひっくり返したかの様に様々な光が散りばめられている。
またしても既視感を感じる。
ぎゅっと抱きしめられる感触。
そっと背後を見ると、彼女が震えながら抱きついていた。
「ごめん、寒いよね? 帰ろっか?」
「...ヤだ..」
彼女はふるふると首を振った。
「..だけど」
「..アタシは...ここでシンジにキスしてもらった..ここではじめて恋人として認めてもらった...でも..」
彼の言葉を妨げて、彼女は切々と訴える。
「...でも..あれから...キスしてもらって...ない..」
潤んだ瞳で、まっすぐに彼女が自分を見つめる。
罪悪感、それが最初に感じたこと。
「ねぇ...キス......して..」
彼女が目を閉じた、そしてゆっくりとその手をほどく。
「(僕はいったい何をやってるんだろう...こんな女の子を悲しませて、そのくせ自分のことだけを考えて...)」
じっとアスカの顔を見つめたまま、彼は考える。
ズキンと心が痛み、心臓が早鐘の様に鼓動を高める。
ドクン...ドクン..ドクンドクンドクン.......
スッと手が動いた、彼女の頬にそっと触れる、ひんやりとした感触。
ゆっくりと、指先が髪の中へと滑り込んだ、頬とは違い、指先に感じるほのかなぬくもり。
「シンジ...」
微かに、ほんの微かに彼女の口から声が漏れる。
声を出してしまった、それと同時に今まで懸命にこらえていたものが奔流となってほとばしる。
もう止まらない、涙が彼の指先に触れた。
熱く、意識を持ったかの様にからみつく滴、それは彼女の想いの全て。
そして、閉ざされた扉を開く鍵。
「うわぁあああああああああ!!!!」
突然聞こえてくる叫び声。
滲んだ視界の中で、彼女は狂ったかの様に頭を抱えて悶え苦しんでいる彼を認めた。
「!? シンジっ! シンジ! しっかりしてっ!! シンジぃいいいっ!!?」
細身の身体からどうしたらそれだけの力が出てくるのか、彼女は必死になって彼の体を押さえ続けた。
「見つからないねぇ?」
「ほんとにそうね、いったいどこにいっちゃったのかなぁ? お兄ちゃん」
「案外、もう家に帰っちゃったんじゃないのかな?」
「そんなことないっ! 絶対にアタシを探してるに決まってるもんっ!」
「アスカはよっぽどそのお兄ちゃんを信じてるんだね?」
「そりゃあ、そうよ。 お兄ちゃんの名前はシンジって言うぐらいだもんっ」
そう言うと、少女はにぱっと笑った。
無邪気な..とても無邪気な笑顔。
「アスカぁ〜?」
微かに彼女を呼んでいる声がした様な気がする。
彼は耳をすましながらゆっくりと周囲を見渡す。
「アスカぁ〜? どこにいるのぉ〜?」
間違いない、誰かが彼女を探している。
「お兄ちゃんだ! お兄ちゃぁんっ! ここだよぉっ!!」
「そこにいるんだね !? アスカっ!」
少しずつ、足音が近づいてくる。
突然、ふっとその姿が見える。
まるで明りを点けたらそこにいたかの様な唐突な現われ方。
「アスカぁっ!」
「お兄ちゃあん!」
手を振りほどき、彼女がまだ幼い少年に向かって走り出す。
泣きじゃくりながら少年の胸をどんどんと叩いている少女を微笑みながら見つめ、彼はゆっくりと歩み寄る。
「よかったね、もう迷子になっちゃだめだよ?」
「うんっ! ありがとうシンジお兄ちゃんっ!」
「夢?」
見慣れた天井をぼうっと見つめながら、ぽそりとつぶやく。
ふうっと息を吐き、また目を閉じる。
「違うよな...自分で自分を探していたってことか.....ほんとに何やってたんだろう」
ゆっくりと視線をめぐらしてみる。
全ては前と変わりない、ただ愛用のヘルメットがないだけ。
「ん?」
腹部の辺りに違和感がある。
首だけを起こしてみると、紅茶色の髪が広がっているのが見える。
自分に覆い被さる様にして、すぅすぅと小さな寝息を立ててアスカが眠っている。
その身体に毛布がかけられているのは、レイがやったことだろうか。
「僕なんかのために...どうしてこの子は...」
そっと右手を抜き、そして彼女の髪へと伸ばす。
さらさらとした感触、心労のためか以前ほどのつややかさはないが、それでも指通りがとてもいい髪。
ゆっくりと、ゆっくりと何度も指を滑らせる。
「...うんっ..?」
緩慢な..そのくせ想いを込めたその動作をどのくらい繰り返しただろうか。
指先からの気持ちが伝わったかの様に彼女が目を覚ます。
「アスカ」
そっとささやく様に声をかける。
「シンジ?」
ゆっくりと顔を上げながら彼女が応えた。
そして瞳の焦点を一刻も早く合わせようと焦る。
「エアコン...つけておけばよかったのに」
ゆっくりとその手を彼女の頬へと動かす。
「...こんなに冷え切っちゃって」
その指先に感じる温度。
自分がそうさせたのだと思うと、きりきりと胸が痛む。
「..うん..でも...喉に悪いと思ったの」
「バカ、風邪をひいたらどうするんだよ」
「アタシはシンジがよければそれでいいから」
「.......」
何も答えられない、口を開いたら自分の不甲斐なさに叫び出してしまうかもしれない。
彼女に気取られない様に、布団の中の左手をぎゅっと握り締める。
「大変だったのよ、あれからリツコさんに電話して、ミサト先生に迎えに来てもらって...」
「..そうなんだ.....ごめん」
やっとそれだけ絞り出した。
「気にしないで、それでリツコさんが鎮静剤を射ってくれてさ、やっとシンジは落ち着いたの。 しばらくは診てたんだけどさ、いつのまにか寝ちゃったみたい。
毛布はレイがかけてくれたんだろうね、看護者としては失格かな」
照れ臭そうに彼女が笑う。
その笑顔を見た時、自然に右手が動く。
「おいで」
掛けぶとんをめくりあげながら声をかける。
「え?」
頬を染めながら聞き返す彼女に対し、更に言葉を続ける。
「ちっちゃい頃...よくこうして寝てたよね?」
「!?....シンジっ!?」
大きく目を見開いたままの彼女に彼は微笑み返し、ゆっくりとうなずく。
「今は..あの頃みたいに、そばにいて欲しいんだ、そしたら..好きなだけ泣いていいから」
「シンジぃ...うぅっ..ぐすっ..」
目元をこすり、必死に涙をこらえながら彼女が半立ちになる、そしてベッドの中へと滑り込んできた。
幼い頃の様にぎゅっと彼の右腕を抱きしめる。
「いいよ、もう..こらえなくても...止めないから好きなだけ..」
「うわぁん...シンジっ! シンジぃぃぃ...」
彼が彼女の制御を取り払った。
堰が切れたかの様に彼女が泣き出す。
ただ彼の右腕を抱きしめながら。
「夢をね、見てたんだ」
「夢?」
ようやく泣きやんだ彼女が不思議そうにまだ赤い瞳を向ける。
彼の右手はまだ抱きしめたままだ。
「うん、ちっちゃい女の子が迷子になっててね、お兄ちゃんがどこかへ行っちゃったって泣くんだ」
「ふぅん」
「それで、その女の子といっしょにいなくなったっていう男の子を探すっていう夢」
「ふふっ、お人好しなシンジらしいわね」
小さく、うれしそうに彼女が笑う。
「その女の子が持ってたのが、サルのぬいぐるみなんだ、赤い髪をしたとても可愛い女の子」
「..サルのぬいぐるみ? 赤い髪? ....アタシじゃない?」
「そう、ちっちゃい頃のアスカが僕がいなくなったって泣いてるんだ、そして僕は僕自身を探してたってわけ」
「なによそれぇ!?」
すっとんきょうな声で彼女が聞き返す。
そしてそのままぽかんと口を開けたまま。
「結局さ、自分で自分を探しに行っててそのまま行方不明になっちゃった...って何言ってるんだか良くわかんないな、ごめん」
「いいわよっ、こうして戻ってきてくれたじゃない、アタシはそれでいいの」
「ありがとう、アスカ..それにしても...」
彼が口ごもる。
不思議そうに彼女がその顔を見つめると、微かに朱がさしている。
「なによぉ?」
「いや...その...」
「はっきり言いなさいってば!」
「....うん...成長したんだね..その...胸が....」
そこまで言うと、一気に顔が真っ赤に染まる。
つられたかの様に彼女もまたゆであがった。
「な!な!なななな何言うのよっ!? こんな時にっ!」
自分から彼の腕を抱きしめていたくせに、面と向かって言われると、つい責任転嫁してしまうものらしい。
彼の腕を持ち上げると、がぶっと噛みついた。
「☆!? いってぇっ!」
「えっちなこと言った罰よ」
してやったりとばかりに彼女が笑う。
「ひどいよアスカぁ、胸を押しつけてきたのはそっちじゃないか..」
「でもね、あんたが女として認めてくれたのは嬉しいの...そ、ちゃあんと女らしくなってるわよ、見たい?」
小悪魔の笑みで彼女が迫る。
彼は冷や汗をこめかみに浮かべた。
「冗談よ、冗談っ! だけどさ、いつか必ず見てもらうわよ?」
「うん」
「でも、今はもうちょっとわがまま聞いてね?」
小さく答えた彼に対して、更に彼女は甘える。
この機会を逃す手はない、それはアスカの策士たるゆえん。
「んしょっ」
彼の右腕を持ち上げると、彼女は身をくねらせる。
そしてぴたっと寄り添うと、そのまま頭の下に右腕をくぐらせた。
「重いけど、がまんしてね?」
そう言いながら、収まりのいい場所を探してごそごそと頭を動かす。
ようやく定まったか満足そうに微笑むと、右手をそっと彼の胸の上へと置いた。
「抱き枕になれって言うの?...これも罰? 」
苦笑しながら彼が彼女の頭を抱える。
「ん? 生殺しってやつかな? シンジには襲う勇気はないだろうから」
にやっと彼女が笑う。
「襲ってほしいの?」
「あんたがその気ならかまわないけど?」
その声に、少しだけ怯えが混じる。
敏感にそれを察知し、彼は話題を変えた。
「あの時、僕を信じられなかったのは自分の罪だって言ったよね?」
ぴくんと彼女が震える。
かまわず、彼は続けた。
「だったら、僕の罪はアスカのことを忘れたこと..だから...」
「そこから先は言っちゃダメ」
彼女は言葉でさえぎると共に彼の唇に人さし指を当てる。
「でも」
「ダメって言ったでしょ? バカシンジ、あんたにはアタシが罰を与えるわ、シンジはアタシのことを忘れた罰として、アタシを必ずお嫁さんにするの、わかった?」
「...うん、わかったよ」
「絶対よっ! 約束破ったらあんた殺してアタシも死ぬからね!? んでもって地獄だろうと天国だろうとずっとずぅっとあんたといっしょにいるんだからっ!」
甘えているのか抗議しているのかわからない言葉に彼はくすくすと笑う。
「誓うよ、僕は必ずアスカをお嫁さんにする」
すっと目を閉じた彼女にそっと唇を重ねる。
いつもより長い、お互いの気持ちを通わせる様なキス。
「ふぁあ...安心したら眠くなっちゃった.....このまま、いい?」
「いいけど..レイが怒らないかな?」
腫れぼったくなった目をこすりながら甘える彼女に、彼は不安気に答えた。
こんな所を見られたら何が起こるかわかったものではない。
「大丈夫よ、レイが起きる前にアタシが起きて朝ご飯作りに行けばいいだけでしょ? いつものことじゃない、平気だって」
「それもそうか、あ!? 僕の部屋って目覚ましないよ?」
「アタシなら大丈夫、習慣になってるからいつも通り起きれるわ」
自信たっぷりに彼女が答える。
自分の寝起きの悪さを自覚している彼は素直に尊敬のまなざしを向ける。
「だから安心して寝ましょっ」
「そうだね、頼んだよアスカ」
「まかせといて、あ・な・た」
頬を染めて、アスカは言葉を返した。
「なにやってんのよあんたたちぃっ!?」
翌朝、アスカの予想を裏切り、いつもより早起きしたレイの絶叫が碇家に響き渡る。
「ずぅえったい、今度復讐してやるんだからぁっ!!」
後悔という名の後書き、もしくは後あがき。(爆)
シンちゃんの事故編最終章です。(^^;
前回はアスカの罪の意識が最後に出て来ましたが、やっぱアスカだけに罪があるわけではなかろうってな訳で今回はシンちゃんの罪の意識が出て来ます。(爆)
それにしても長くなったなぁ。(^^;
本当に頭の中に入っていたものをだらだらと書き出していっただけなのに。(それが原因やろが(爆))
そして、こういったものを書くだけの能力はないと思い知らされた3ヶ月でした。
でわでわ。
〜 サブタイトルはB’zの同名の曲より 〜
1999.04.02 おかやん